アディダス サッカー日本代表 100周年アニバーサリーユニフォーム

発売記念スペシャルインタビュー

釜本邦茂

  • 文:二宮寿朗   写真:大久保啓二

  • 日本代表100年の中で最高のストライカー。今なお後輩たちにその称号を譲っていないのがレジェンド中のレジェンド、釜本邦茂である。彼が大活躍した「アステカの奇跡」によって対世界の扉が開かれたのだった。

  • クラマーが教えてくれた「サッカーに必要なこと」

    ――小学生でサッカーを始めていた釜本さんは中学に入ったら、野球をやろうと思っていたそうですね。

    釜本:サッカーをやっておられた小学校の先生から“中学では何をやるんだ”と聞かれて“野球をやります”って答えたら、“野球は日本とアメリカだけ。サッカーなら世界どこでも行けるぞ”と言われてね。それでサッカーを選ぶ形になりました。

    ――京都・山城高校に進学され、日本代表のコーチとなったデットマール・クラマーさんと運命的な出会いを果たします。1961年、京都で行なわれた関西選抜の講習会でした。

    釜本:大学生と社会人が対象で、高校生は僕を含めて5人くらいしかいなかった。ボールに空気を入れたり、ゴールネットを張ったり、そういうお手伝いするために呼ばれただけだと思っていたんですよ。リフティングなんてやったことのない時代。クラマーさんが実践してくれて、凄いなって思いましたよ。周りを見ろとか、前もってプレーを考えておけとか、サッカーに必要なことを教えてくれて、とても勉強になりましたね。

  • 日本サッカー界のレジェンド釡本氏にインタビューを実施。日本サッカー界の過去・現在・未来について語ってもらった

  • ――日本ユース代表に選出されるなど注目を集め、強豪の早稲田大学に進学されました。

    釜本:関西の大学に行くか、関東の大学に行くか、私の大きな分岐点になりました。当時は強いチームが関東に多くあって、早稲田大学に行っていた山城高の先輩からも誘われました。翌年の1964年には東京で世界と戦える大舞台がありましたから、そのメンバーに入るための選択肢でもあったんです。

    ――大学1年時から活躍して日本代表に選ばれ、クラマーさんの指導をみっちりと受けていくことになります。

    釜本:あれはいつだったかな。日本代表のドイツ遠征で試合後のレセプションで乾杯となったときに、喉も乾いていたからビールを一気に飲み干したんです。そうしたらレセプションの最中にクラマーさんが“お前らこっちに来い”とみんなを集めた。“試合をして疲れている内臓に冷たい飲みものを一気に流し込んじゃダメだ”、と言うんです。常にコンディションのことを考えろということを教わりましたね。当時の日本にはそういう考えはなかったですから。

    ――1964年、東京での国際大会。グループステージ初戦でアルゼンチン代表を3-2で破りました。この試合、釜本さんは川淵三郎さんの得点をアシストしています。

    釜本:1964年大会の思い出は、貢献度がほぼゼロだったっていうことだけ。アシストしたといっても、本来僕は点を取るポジション。アシストというのは自分の仕事をやっていないに等しい。世界と戦ってみて、自分のレベルがどれくらいなのかってよく分かりましたよ。

  • コミュニケーションで磨かかれた杉山との名コンビ

    ――4年後のメキシコでの国際大会を目指していくことになります。

    釜本:東京からメキシコの間は、点を取ることしか考えていなかった。チームが勝つには点を取らないといけない。パスをくれる杉山(隆一)さんに対しても、年上の先輩ですから“ああやってください、こうやってください”とはかつては言えなかった。でも、自分が点を取るにはこの人からいいボールをもらわなきゃいけないし、どんなボールが出てくるのか分からなかったら得点にはならない。私が“こういう場合にはこうしてください”と言えば、杉山さんも“俺がこうしたら、お前はここに走れよ”ってお互いに要求して、コミュニケーションを取って約束ごとを2人で決めていきました。約束どおりに動いてもボールが出てこなかったら“どうしてですか?”と言えるし、逆に“なぜここに走ってこないんだ”と怒られることもある。“いや、1つタイミングが早いですよ”とか言いながら、2人で連係を合わせていきましたね。

    ――1967年10月のアジア予選。ライバルの韓国代表と3-3の引き分けで、メキシコへのチケットを近づけることになります。得意の「右45度」から3点目を奪ったのが釜本さんでした。

    釜本:宮本(輝紀)さんからの縦パスを受けたときにはほとんどフリーの状態で、GKの体に当てずに枠のなかに蹴れば簡単に入るよなって場面。だけど(相手GKに)当たってちょっと危なかった。ゴールを決めて“明日の新聞は釜本、決勝ゴールという見出しになるな”と思ったら2、3分後に同点ゴールを決められました。最後の最後にも相手のシュートがバーに当たるなど危なかった。本当にあれは大変な試合でしたよ。

  • 日本代表として76 試合に出場し75 ゴールを挙げるという驚異的な決定力を誇る日本サッカー界史上場最高のストライカー

  • ――前半は2-0とリードしていました。

    釜本:前半の2-0というスコアは危ないなってつくづく思いましたね。相手にしてみたら1点返したら、あと1点で追いつけるっていう勢いが生まれる。だから十分に気をつけないと追い越されてしまう可能性がある。前半の最後に八重樫(茂生)さんにセンタリングを送ったんだけど、土砂降りのグラウンドだったから決められなかった。“あなたがゴールを取っていたら勝てたのに”と本人に言いましたけどね(笑)。

    ――最終的には得失点差で韓国代表を上回っての突破でした。

    釜本:予選の初戦でフィリピン代表に15-0で勝ったことが結果的には効きました。監督、コーチは得失点差の勝負になるかもしれないと先を見越していたんじゃないですかね。予選のなかで一番しんどい試合でしたよ。得点しても喜ぶ暇なんてない。ナンボでも入れろと、ボールをすぐにセンターサークルまで持って返ってこなきゃいけなかった。得失点差というのはやっぱり大事なんですよ。1996年のアトランタのときは2勝1敗ながら、得失点差で決勝トーナメントに進めなかったわけですから。

  • メキシコに“ボールを持たせてやってる”感覚

    ――1968年10月、メキシコ大会のグループリーグ初戦ナイジェリア戦でいきなりハットトリックをマークします。

    釜本:“お前は点を取らなきゃいけないんだぞ”とずっと言われ続けてきて、最初の1点を取ったらスッと肩の力が抜けていきました。肩に入っていた衣紋掛けが取れたような感じ。楽にシュートを打てば、全部入るっていう感覚になりましたよ。

    ――準々決勝のフランス代表戦でも2ゴールを挙げて勝利。準決勝に進みましたが、ハンガリー代表に0-5と大敗します。3位決定戦のメキシコ代表戦に向けて、気持ちの切り替えは大変だったのではないでしょうか?

    釜本:あれが0-1とか1-2なら、“もうちょっとやっておけば”なって思うんでしょうけど、完敗ですから。世界のトップクラスはこんなにも強いのかって……。悔しいという気持ちなんて私にはさらさらなかったですよ。

  • 「当時の背番号は15。自分で選んだのではなく、選手名が載ったリストの上から15 番目に記載されていたからという理由だけ(笑)」

  • ――当時日本代表のコーチを離れていたクラマーさんはFIFAのスタッフとしてメキシコに来ていて、日本代表をサポートしていたと聞きます。

    釜本:3位決定戦の前に、ビールを一杯飲ませてくれたんですよね。そして“銅メダルを持って日本に帰るか、それとも手ぶらで帰るか、どっちがいい?”と。そりゃあメダルだよなって、士気が高まった感じがありましたね。

    ――完全アウェイのアステカスタジアムにおいて日本代表は釜本さんの2ゴールでメキシコ代表に勝利して銅メダルを獲得します。

    釜本:3月に一度親善試合で対戦したときに、高地トレーニングもしていなかった我々は終盤に動きが止まって完敗したんですよ。その時の経験から、簡単に勝てる相手だとメキシコは我々をなめていたところはあったと思いますよ。日本としては堅守速攻ですよね。ボールを支配されるのは分かっていました。よく言っていたのは“ボールを持たせてやってるんだ”と。だからボールを持たれても、別にどうとも思わなかったですね。

    ――あの試合も前半2-0という展開でした。

    釜本:後半に入ってPKをGKの横山(謙三)さんが止めてくれた。あれで私は、勝ったと思いましたね。もしあれを決められていたら分からなかったんじゃないかな。最後のほうは“ハポン(日本)、ハポン”って現地の観客が日本を応援してくれて。クリアしたボールがスタンドに入ると、ファンがボールをピッチに戻さない。昔はマルチボールじゃないから“もっとスタンドで遊んでおってくれ”と思いましたね。当時は10日間で6試合こなすフォーマットだったから体力的には厳しかった。みんな試合が終わって宿舎に戻ったらすぐに寝ていましたからね。ただ、私は前線にいて真ん中に立っていただけだから楽をさせてもらった。しんどいなっていうふりして寝ていましたよ(笑)。

    ――メキシコでの活躍が大きな反響を呼び、日本サッカーリーグ(JSL)の三菱重工とヤンマーディーゼルの一戦は、国立競技場に4万人の観客を集めました。三菱の杉山対ヤンマーの釜本が注目されました。

    釜本:メキシコから1カ月後の試合ですよね。いつもは3000人、4000人くらいのなかでサッカーやっていましたから、驚きましたよ。でも、日本にサッカーを根づかせたいっていう思いがあったのでうれしかったです。

  • 過去の話をするときには当時を懐かしむように笑みを浮かべつつ、現在の日本サッカー界の話題になると時折厳しい表情を見せることも

  • 昔のユニフォームにそっくり。再現性が高い

    ――今年はJFA100周年。100年後、日本サッカーがどうなっていけばいいと思いますか?

    釜本:日本代表が世界のなかでも上位20傑に入るレベルではあってほしいですね。それくらいであればFIFAワールドカップでも上位に行く可能性はあると思いますから。積み上げていったものを土台に、進歩させてほしいなっていう願いはあります。そのためには個のレベルをもっと上げていかなきゃいけない。ボールを正確に蹴る技術、フィジカルの強さ、スタミナとか足りないものって自分で分かる。個の力を自分で鍛えていくことが、強い日本代表につながっていくと思いますね。

    ――“後輩”となる日本代表選手に対してメッセージがあればお願いいたします。

    釜本:試合というものは戦いです。目の前の相手に、いかにして勝つか。フォワードなら相手ディフェンダーをどう破るか、ディフェンダーなら相手フォワードをどう食い止めるか。目の前の相手に勝つというのが基本ですから。そこはしっかりと軸として持ってもらいたいし、90分間貫いてほしいですね。

    ――100周年アニバーサリーユニフォームの感想を教えてください。

    釜本:昔のユニフォームにそっくりです。再現性が高いんじゃないですか。昔の生地は木綿でしたから、雨の日の試合なんて水分で重くなっていましたけど、これはデザインだけ昔で、機能性は今のものですよね。通気性もいいし、プレーしやすそうだなって思います。この襟のところが昔っぽいね(笑)。胸のワッペンも日の丸で当時のまんまですね。

    ――では最後に。将来、日本代表のユニフォームを着てプレーすることを目指す子どもたちに、釜本さんの経験から何か伝えられることはありますか?

    釜本:夢を持ち続けてほしい。夢を持つことで、そこに向かって進んでいけますから。何もしなかったら進んではいきませんよ。努力しないとダメ。人からあれやりなさい、これやりなさいと言われてやっても、それじゃ本当の努力とは言えません。どうしたら夢に近づけるのかって自分で考えてやることが大切だと、私は伝えたいですね。

  • 「100 年後もサッカーが世界で愛されるスポーツであって欲しいね」と思いを馳せる

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